尖閣,竹島問題の考え方 とどめの一発
原発やら政治の迷走だけでも日本は死にそうなのに尖閣と竹島問題で,日本経済はとどめをさされそうな様相だ。
隣国の政治家は国民をうまくあおり,あおられていきりたっているのはどこの国でも不満の多い若者と頭の固い年寄りが多いようには私には見える…
関西大学や立命館大学で政治学を教えているらしい,豊下楢彦氏による「安保条約と脅威論」は読む価値があるよ。
↓
http://www.ritsumei.ac.jp/mng/er/wp-museum/publication/journal/documents/12_p01.pdf
忙しい人向けに,もうしわけないけど,ところどころの抜粋,要約です。
↓
------------
「…改めて,確認しておくならば尖閣諸島はもちろん,北方領土も竹島もさらには南沙諸島,西沙諸島も日本の敗戦まではずっと日本の領土であったということである。(ちなみに南沙,西沙諸島は1938年,39年に日本が相次いでフランスから奪取)ということは本来ならば,これらの諸島,島嶼の帰属問題については51年に調印されたサンフランシスコ条約で解決されておくべき問題であった。ところが,同条約第2条では,千島列島も南沙,西沙諸島も日本が放棄することは明記されたが,帰属先については何も触れられていない。もちろんこの背景にはソ連が講和会議に出席したものの調印しなかったことや中国も台湾も会議への参加が認められなかったという問題がある。とはいえ,サンフランシスコ講和条約は日本の領土問題をあいまいなままに処理したことに重要な特徴がある…」
「…主権国家が成立して以降も絶えず国境線が動いていたヨーロッパにおいて「固有の領土」といった概念は存在しない。というよりも、そもそも「固有の領土」とは国際法上の概念では全くなく、北方領土、竹島、尖閣といった領土紛争を三つも抱え込んだ日本の政府と外務省が考え出した、きわめて政治的な概念に他ならないのである。…まずは「固有の領土」という不毛な概念から離脱することである。」
「政府やメディアが、国際法上の根拠もないこの概念を綿密な検証もなしにお題目のように繰り返すことで、日本外交が呪縛され柔軟性が失われてきた…」
「米国は沖縄返還の前年1971年6月の返還協定の調印を前に、「沖縄と一緒に尖閣諸島の施政権は返還するが、主権問題に関しては立場を表明しない」との「中立の立場」を方針として決定するという、「あいまい」戦略をとっている。これはニクソン政権期での「米中和解」による中国への「配慮」であることと加えて、<日中間で領土紛争が存在すれば、沖縄の本土への返還以降も「米軍の沖縄駐留は、より正当化される」という思惑であった。
つまり、尖閣諸島の帰属に関する「あいまい」戦略は、沖縄返還に際して日中間にあえて紛争の火種を残し、米軍のプレゼンスを確保しようとする狙いがあったのである。>
領土問題をめぐる米国のこうした思惑は、「北方領土」問題でも鮮明に示されている。
つまり、日本とソ連が領土問題で紛争状態を永続化させることが米国にとって多大なメリットがあるという判断である。そして、<いずれにせよ、国際社会から見れば、尖閣をめぐる問題は、まさに「異様」と言う以外にないであろう。なぜなら、日本の政府もメディアも研究者も世論も、豊富な資料と歴史的経緯に照らして尖閣諸島が間違いなく、「日本固有の領土」であると主張し続けてきた。
ところが、この「明々白々たる歴史的事実」を、唯一無二の同盟国たる米国が認めようとしないのである。
中国からすれば、これほど有り難い状況はないであろう。実に同国は、尖閣の帰属をめぐる日米間のこの重大な亀裂を徹底的に突いて攻勢を強めてきたのである。… 尖閣問題をめぐって、中国の「横暴さ」と米国の「無責さ」との間に翻弄されないように、「横暴で無責任な」パワーを規制する「国際社会のルール化」という方向で、ASEANや周辺諸国と密接に提携しつつ日本がイニシアティブをとるという方向性こそ、日本の国際的な「存在感」は飛躍的に高まるのではなかろうか…」
----------
↑ 以上 まとめ 以下はどうでもいい,私の感想
今頃になって日本が領土を簡単に主張すればすむ問題でないことがよ~くわかったよ。今までの政治家がアメリカのポチとなって,言うべきことも言わず,段階を踏んでやるべきことをやってこなかったのだってこと。中国のも韓国の政治家もそういう日本の立場を熟知しつつ,ことを運んでるということを私たちは知っておかないといけない。
とりあえず今までどおり,実効支配としながら,戦略を練るべきだったのだ。アメリカに釘をさし,日本の正当性を引き出しておいてから,石原はことをはじめなければならなかったのに,おいぼれ政治家の罪はあまりに大きい。
私たち国民がやること。それは信じるに足る相手を見つけ草の根外交を今までどおり続けることだ。あおりや,挑発にのらずにね。そういう国民のほうがどこの国民でも圧倒的に多いのだ。
隣国の政治家は国民をうまくあおり,あおられていきりたっているのはどこの国でも不満の多い若者と頭の固い年寄りが多いようには私には見える…
関西大学や立命館大学で政治学を教えているらしい,豊下楢彦氏による「安保条約と脅威論」は読む価値があるよ。
↓
http://www.ritsumei.ac.jp/mng/er/wp-museum/publication/journal/documents/12_p01.pdf
忙しい人向けに,もうしわけないけど,ところどころの抜粋,要約です。
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「…改めて,確認しておくならば尖閣諸島はもちろん,北方領土も竹島もさらには南沙諸島,西沙諸島も日本の敗戦まではずっと日本の領土であったということである。(ちなみに南沙,西沙諸島は1938年,39年に日本が相次いでフランスから奪取)ということは本来ならば,これらの諸島,島嶼の帰属問題については51年に調印されたサンフランシスコ条約で解決されておくべき問題であった。ところが,同条約第2条では,千島列島も南沙,西沙諸島も日本が放棄することは明記されたが,帰属先については何も触れられていない。もちろんこの背景にはソ連が講和会議に出席したものの調印しなかったことや中国も台湾も会議への参加が認められなかったという問題がある。とはいえ,サンフランシスコ講和条約は日本の領土問題をあいまいなままに処理したことに重要な特徴がある…」
「…主権国家が成立して以降も絶えず国境線が動いていたヨーロッパにおいて「固有の領土」といった概念は存在しない。というよりも、そもそも「固有の領土」とは国際法上の概念では全くなく、北方領土、竹島、尖閣といった領土紛争を三つも抱え込んだ日本の政府と外務省が考え出した、きわめて政治的な概念に他ならないのである。…まずは「固有の領土」という不毛な概念から離脱することである。」
「政府やメディアが、国際法上の根拠もないこの概念を綿密な検証もなしにお題目のように繰り返すことで、日本外交が呪縛され柔軟性が失われてきた…」
「米国は沖縄返還の前年1971年6月の返還協定の調印を前に、「沖縄と一緒に尖閣諸島の施政権は返還するが、主権問題に関しては立場を表明しない」との「中立の立場」を方針として決定するという、「あいまい」戦略をとっている。これはニクソン政権期での「米中和解」による中国への「配慮」であることと加えて、<日中間で領土紛争が存在すれば、沖縄の本土への返還以降も「米軍の沖縄駐留は、より正当化される」という思惑であった。
つまり、尖閣諸島の帰属に関する「あいまい」戦略は、沖縄返還に際して日中間にあえて紛争の火種を残し、米軍のプレゼンスを確保しようとする狙いがあったのである。>
領土問題をめぐる米国のこうした思惑は、「北方領土」問題でも鮮明に示されている。
つまり、日本とソ連が領土問題で紛争状態を永続化させることが米国にとって多大なメリットがあるという判断である。そして、<いずれにせよ、国際社会から見れば、尖閣をめぐる問題は、まさに「異様」と言う以外にないであろう。なぜなら、日本の政府もメディアも研究者も世論も、豊富な資料と歴史的経緯に照らして尖閣諸島が間違いなく、「日本固有の領土」であると主張し続けてきた。
ところが、この「明々白々たる歴史的事実」を、唯一無二の同盟国たる米国が認めようとしないのである。
中国からすれば、これほど有り難い状況はないであろう。実に同国は、尖閣の帰属をめぐる日米間のこの重大な亀裂を徹底的に突いて攻勢を強めてきたのである。… 尖閣問題をめぐって、中国の「横暴さ」と米国の「無責さ」との間に翻弄されないように、「横暴で無責任な」パワーを規制する「国際社会のルール化」という方向で、ASEANや周辺諸国と密接に提携しつつ日本がイニシアティブをとるという方向性こそ、日本の国際的な「存在感」は飛躍的に高まるのではなかろうか…」
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↑ 以上 まとめ 以下はどうでもいい,私の感想
今頃になって日本が領土を簡単に主張すればすむ問題でないことがよ~くわかったよ。今までの政治家がアメリカのポチとなって,言うべきことも言わず,段階を踏んでやるべきことをやってこなかったのだってこと。中国のも韓国の政治家もそういう日本の立場を熟知しつつ,ことを運んでるということを私たちは知っておかないといけない。
とりあえず今までどおり,実効支配としながら,戦略を練るべきだったのだ。アメリカに釘をさし,日本の正当性を引き出しておいてから,石原はことをはじめなければならなかったのに,おいぼれ政治家の罪はあまりに大きい。
私たち国民がやること。それは信じるに足る相手を見つけ草の根外交を今までどおり続けることだ。あおりや,挑発にのらずにね。そういう国民のほうがどこの国民でも圧倒的に多いのだ。
サービスセンターの帰りにじゃんじゃん横丁で(^-^)V
転んでもただでは起きないのだよ。
カメラの修理が果たせないまま,(わずか10分で用が終わったが),夫にじゃんじゃん横丁行きを提案。青春を大阪で過ごした夫はモチOKだ。朝9時着をねらい忙しく,朝ごはんを食べてなかったので,じゃんじゃんで,二度漬けゴメンの串揚げを食べて,
周辺をぶらぶら。
東映の映画館の看板写真を見てたら,「コレハ見るべきだ…」と心の声がした。
渋る夫を連れて入った。大正解!だって結果夫も大喜びだったから。
若かりし20代の中村錦之助や10代とも思える里見浩太郎,美しい香川京子なんかに会えたし,鶴田浩二の映画ではアパートや町の生活があまりに懐かしく,泣けてくるほどだった。
見回したら回りはみんな年寄りの男性ばかり。モギリはお婆さんだった。途中から入ってももう一度見ていられるのかと聞いたら,「勿論!何回だって見られます!」って。懐かしい古い映画館。最高のひと時だった。モギリのお婆さんに「また来るね。ありがとう!」と言った。
「とうちゃん,毎月1回来るかね?」と言ったら,「いいね!」だって。元気な女性の多い,東京巣鴨の年寄り天国に比べると,ちょっと哀愁がただよう,大阪のじゃんじゃん横丁は男の年寄り天国なのだ。
カメラの修理が果たせないまま,(わずか10分で用が終わったが),夫にじゃんじゃん横丁行きを提案。青春を大阪で過ごした夫はモチOKだ。朝9時着をねらい忙しく,朝ごはんを食べてなかったので,じゃんじゃんで,二度漬けゴメンの串揚げを食べて,
周辺をぶらぶら。
東映の映画館の看板写真を見てたら,「コレハ見るべきだ…」と心の声がした。
渋る夫を連れて入った。大正解!だって結果夫も大喜びだったから。
若かりし20代の中村錦之助や10代とも思える里見浩太郎,美しい香川京子なんかに会えたし,鶴田浩二の映画ではアパートや町の生活があまりに懐かしく,泣けてくるほどだった。
見回したら回りはみんな年寄りの男性ばかり。モギリはお婆さんだった。途中から入ってももう一度見ていられるのかと聞いたら,「勿論!何回だって見られます!」って。懐かしい古い映画館。最高のひと時だった。モギリのお婆さんに「また来るね。ありがとう!」と言った。
「とうちゃん,毎月1回来るかね?」と言ったら,「いいね!」だって。元気な女性の多い,東京巣鴨の年寄り天国に比べると,ちょっと哀愁がただよう,大阪のじゃんじゃん横丁は男の年寄り天国なのだ。

サービスセンターにカメラを持ち込む
2ヶ月以上前に私愛用の富士フイルムのデジカメの3代目が,壊れてしまった。今度の買い替えをずっと考え続けてきた…
これがそれ。
レンズが出っ放しになって収まらない。サポートに電話をすると,宮城の工場に送って,最低でも1万5000円ほどかかる。
このカメラは4年前に私としては,清水の舞台から飛び降りて(←まっ,時々あちこちでこの舞台は飛び降りてはいるが…)3万円以上のをネットで2万円代で買ったものだ。
光学18倍。接写も2段階あって10cmくらいの場所からでもOKなのだ。少々重いが,ずっと使い続けるつもりで買ったのだ…ああそれなのに…
直営のサービスセンターに持ち込むと制限時間30分以内で,その場で修理可能ならば無料というシステムがあることを知って,そういうかけみたいな話は結構好きなのだ。その日をねらっていたのだ。
ようやく大阪の本町というその場に出向くことができた。村の山の家からは7時間,街の家からは快速電車で75分。ひたすら機会を待った…
結果
直らなかった…というか,開けてみた様子がない…
富士の大阪ビルの立派な社屋から3分,貸しビルの3Fの1室にその部屋はあった。他には客が誰もいなかった。受付には人がいなく,呼び鈴で中から出てきた人が,「10分ほど時間かかります。それまでお待ちください」と言う。
私はあわてて,「30分時間がもらえるらしいので,十分に時間を使ってください」と言ったが,あっと言う間にカメラもそのままに見積もり書を持って出てきた…見積もり書作成の時間だったのでは?
12600円。それもそこに,受け取りに行っての値段。預ける訳ない… なんだかなあ。技術者というよりも営業の顔だったし… フタを開けて本当に壊してもいいからしっかり見て欲しいといったのだけど… これって勝手な思い違い?
サービスセンターって何よ?

これがそれ。
レンズが出っ放しになって収まらない。サポートに電話をすると,宮城の工場に送って,最低でも1万5000円ほどかかる。
このカメラは4年前に私としては,清水の舞台から飛び降りて(←まっ,時々あちこちでこの舞台は飛び降りてはいるが…)3万円以上のをネットで2万円代で買ったものだ。
光学18倍。接写も2段階あって10cmくらいの場所からでもOKなのだ。少々重いが,ずっと使い続けるつもりで買ったのだ…ああそれなのに…
直営のサービスセンターに持ち込むと制限時間30分以内で,その場で修理可能ならば無料というシステムがあることを知って,そういうかけみたいな話は結構好きなのだ。その日をねらっていたのだ。
ようやく大阪の本町というその場に出向くことができた。村の山の家からは7時間,街の家からは快速電車で75分。ひたすら機会を待った…
結果
直らなかった…というか,開けてみた様子がない…
富士の大阪ビルの立派な社屋から3分,貸しビルの3Fの1室にその部屋はあった。他には客が誰もいなかった。受付には人がいなく,呼び鈴で中から出てきた人が,「10分ほど時間かかります。それまでお待ちください」と言う。
私はあわてて,「30分時間がもらえるらしいので,十分に時間を使ってください」と言ったが,あっと言う間にカメラもそのままに見積もり書を持って出てきた…見積もり書作成の時間だったのでは?
12600円。それもそこに,受け取りに行っての値段。預ける訳ない… なんだかなあ。技術者というよりも営業の顔だったし… フタを開けて本当に壊してもいいからしっかり見て欲しいといったのだけど… これって勝手な思い違い?
サービスセンターって何よ?

責任の所在を転嫁しあう底なし時代 1
ちょっと前,NTTファイナンス(NTTが集金業務←金貸し? を目的に作った新会社)とゆうちょ銀行&ゆうちょダイレクトに電話で怒鳴りつけて以来,何だかなあ…という気持ちで数日鬱々と過ごした。
NTTからNTTファイナンスに支払い先が変更になるという通知をもらったので,ちょうどうちも,振替口座の銀行を変えたいので,変更届けを出したのだ。それは受理された。が,「新しい口座からは10月から落ちるので,7月,8月,9月分は請求書を送るので,振り込んでもらいたい」と,ここまでもまあよい。
それでその振込を,請求書がきた当日に請求書に同封された振り込み用紙でなく,ネットからゆうちょダイレクトを使って,NTTファイナンスの口座番号を直接入力して振り込んだのだ。
それが,届いてなかった…。気づかぬ間に固定電話が止められていた。驚くほど素早い対応なのだ。ゆうちょダイレクトからの振り込み記録はパソコン上でも確認でき,プリントアウトもできる。
NTTファは「入金記録がないので,ゆうちょの問題」といい,
ゆうちょダイレクトは,「記録をプリントして,ゆうちょ銀行に持って行って相談してくれ,そういう問題を処理する業務はゆうちょ銀行のほうだが,その瞬間にNTTに送っているのだから本来調べるまでもない。NTTが受け取ってないというのならNTTの処理上の問題」と。
ゆうちょ銀行は「ゆうちょダイレクトとうちは別システムでやっている」窓口に来られてもどうすることもできない」
NTTファに2度,ゆうちょダイレクトに2度,口座をつくったゆうちょ銀行に1度電話をかけた時点で,「やられた。いつものグルグルだ」と気づいた。そもそも一貫して責任を負うのが面倒だから新しい関連会社をつくるのだ。システムの狭間に落ちた顧客のことなんて,関わっていたら,新しい大きな仕事に向かえないのだ。
商いのモラルなんて,もうどこにもない。政治家や公務員のモラルと一緒だ。
NTTファはその後の調査で,間違いを認めわびてきた。が,8月分の請求がきたが停止した期間の請求を差し引くと言ったのはやはりウソだった。トラブルのミスは詫びても,金額を減じる権限なんてNTTファにはもともとないからだ。あ~あ。
NTTからNTTファイナンスに支払い先が変更になるという通知をもらったので,ちょうどうちも,振替口座の銀行を変えたいので,変更届けを出したのだ。それは受理された。が,「新しい口座からは10月から落ちるので,7月,8月,9月分は請求書を送るので,振り込んでもらいたい」と,ここまでもまあよい。
それでその振込を,請求書がきた当日に請求書に同封された振り込み用紙でなく,ネットからゆうちょダイレクトを使って,NTTファイナンスの口座番号を直接入力して振り込んだのだ。
それが,届いてなかった…。気づかぬ間に固定電話が止められていた。驚くほど素早い対応なのだ。ゆうちょダイレクトからの振り込み記録はパソコン上でも確認でき,プリントアウトもできる。
NTTファは「入金記録がないので,ゆうちょの問題」といい,
ゆうちょダイレクトは,「記録をプリントして,ゆうちょ銀行に持って行って相談してくれ,そういう問題を処理する業務はゆうちょ銀行のほうだが,その瞬間にNTTに送っているのだから本来調べるまでもない。NTTが受け取ってないというのならNTTの処理上の問題」と。
ゆうちょ銀行は「ゆうちょダイレクトとうちは別システムでやっている」窓口に来られてもどうすることもできない」
NTTファに2度,ゆうちょダイレクトに2度,口座をつくったゆうちょ銀行に1度電話をかけた時点で,「やられた。いつものグルグルだ」と気づいた。そもそも一貫して責任を負うのが面倒だから新しい関連会社をつくるのだ。システムの狭間に落ちた顧客のことなんて,関わっていたら,新しい大きな仕事に向かえないのだ。
商いのモラルなんて,もうどこにもない。政治家や公務員のモラルと一緒だ。
NTTファはその後の調査で,間違いを認めわびてきた。が,8月分の請求がきたが停止した期間の請求を差し引くと言ったのはやはりウソだった。トラブルのミスは詫びても,金額を減じる権限なんてNTTファにはもともとないからだ。あ~あ。
封印してきたできごと その2
それは内申書の改ざんに加わったこと。
内申書の教科ごとの評価は10段階で行う。生徒に手渡される通知表の数値は5段階だ。(←その当時)
生徒に手渡す通知書のほうはある程度,努力目標や激励を期待する数値であったりすることができないこともない。(全員に「5」をつけて問題になった教師がニュースになった時代でもあったナ…)
内申書の数値は,学年全体の人数に一定の%を掛けて出す,相対評価で,その数値はその学年で学んだ生徒の記録として学校に数年残されることになる。表には出ないが裏の数値だ。
それが本当に正当なものならそういうものがあってもいいだろう。でも内申書の一番重要な利用目的は入試だった。だからこの数値にはゆがみが出た。受験テストで一発で合否を決めてくれればればいいものを,内申書の数値の合計と受験テストの数値の合計で合否の判定をする学校があった。また受験テストだけで判定する学校があった。あるいは内申書だけを見る推薦入試があった。
受験校によって,内申書の点数が悪くても関係ない学校。内申書の点数が大事な学校があるということは,実際の点数が良い生徒と悪い生徒の,数値の取り換えをする学校が出てくるということだ。全体の合格者の数値を伸ばすために。
学年の教師全体で一人ひとりの受験校と成績をにらみ,すり合わせをし,取り換える。それは密かにどこの学校でもやっているとその時に聞かされた…。自分のクラスの子の数値が落とされるのは苦しい。差し出したくはない。が出さなければ会議は終わらない… 30年以上経っても,下げた子の名前も顔も今でも目に浮かぶ。上げた子は思い出せない。謝りたい。申し訳ないと思っている。
教師は内申書を書いてはイケナイ… 教師に内申書を書かせてもイケナイ 試験は一発勝負とすべきだ。運も人生なのだ。あるいは成績表なんて関係なく入学させる学校もあっていい。
それともう一つ,これこそが内申書の最大の害だ。内申書の数値以外に,父母も子も,人物評価の欄の言葉に疑心暗鬼だ。大概の教師は子の役にたてるような言葉を書き連ねる。祈りの気持ちを持って書く。
安心できない親の一人が,受けもしない(後で判明)受験校の為に内申書を余分に一通私に作成させた。受験しなかったのだ。が,その内申書は返還されることはなかった。一度でも開封したらそれは内申書としては通用しなくなる。それを見たい為だけに書かせた1通だった。
それ以後私への態度が激変した。とても信頼してくれる顔になった。私が退職したとき,花束をもって最後まで見送りについてくれた。(教師達とは対照的だったが…)
文部省も日教組も裏金づくりや成績改ざんにまともに向きあったことはない。みんなグルグルなのだよ。
内申書の教科ごとの評価は10段階で行う。生徒に手渡される通知表の数値は5段階だ。(←その当時)
生徒に手渡す通知書のほうはある程度,努力目標や激励を期待する数値であったりすることができないこともない。(全員に「5」をつけて問題になった教師がニュースになった時代でもあったナ…)
内申書の数値は,学年全体の人数に一定の%を掛けて出す,相対評価で,その数値はその学年で学んだ生徒の記録として学校に数年残されることになる。表には出ないが裏の数値だ。
それが本当に正当なものならそういうものがあってもいいだろう。でも内申書の一番重要な利用目的は入試だった。だからこの数値にはゆがみが出た。受験テストで一発で合否を決めてくれればればいいものを,内申書の数値の合計と受験テストの数値の合計で合否の判定をする学校があった。また受験テストだけで判定する学校があった。あるいは内申書だけを見る推薦入試があった。
受験校によって,内申書の点数が悪くても関係ない学校。内申書の点数が大事な学校があるということは,実際の点数が良い生徒と悪い生徒の,数値の取り換えをする学校が出てくるということだ。全体の合格者の数値を伸ばすために。
学年の教師全体で一人ひとりの受験校と成績をにらみ,すり合わせをし,取り換える。それは密かにどこの学校でもやっているとその時に聞かされた…。自分のクラスの子の数値が落とされるのは苦しい。差し出したくはない。が出さなければ会議は終わらない… 30年以上経っても,下げた子の名前も顔も今でも目に浮かぶ。上げた子は思い出せない。謝りたい。申し訳ないと思っている。
教師は内申書を書いてはイケナイ… 教師に内申書を書かせてもイケナイ 試験は一発勝負とすべきだ。運も人生なのだ。あるいは成績表なんて関係なく入学させる学校もあっていい。
それともう一つ,これこそが内申書の最大の害だ。内申書の数値以外に,父母も子も,人物評価の欄の言葉に疑心暗鬼だ。大概の教師は子の役にたてるような言葉を書き連ねる。祈りの気持ちを持って書く。
安心できない親の一人が,受けもしない(後で判明)受験校の為に内申書を余分に一通私に作成させた。受験しなかったのだ。が,その内申書は返還されることはなかった。一度でも開封したらそれは内申書としては通用しなくなる。それを見たい為だけに書かせた1通だった。
それ以後私への態度が激変した。とても信頼してくれる顔になった。私が退職したとき,花束をもって最後まで見送りについてくれた。(教師達とは対照的だったが…)
文部省も日教組も裏金づくりや成績改ざんにまともに向きあったことはない。みんなグルグルなのだよ。
封印してきたできごと その1
「封印してしまった古い事件から私が学んだこと」
↓
http://kamumi.blog24.fc2.com/blog-entry-179.html
その日。私は,とある料理屋(料亭?)末席におり,「針のムシロ」とはこういう状況を言うのか…という不思議な感慨でただただ俯いて黙って座っていた。
体の大きい男の学年主任がその席上で泣き崩れ,先生たち全員に詫びた。そして,主任を慰める周囲の先生の冷ややかな視線がすべて私に向かっていた。その原因をつくったのは私だったからだ。
主任が泣いた理由それは,先生方全員をタダで沖縄旅行に連れて行くことができなかったからだ。先生一人分が当時で10数万円以上のプールがあり,それを急きょとりやめ,自腹で,しかも食事だけの慰労会となり,「それなら参加します」と言った,私の為に開かれた席上であった。
毎年,毎年,生徒から教材費や本代を定価で集金し,業者には仕入れ値を渡し,差額を裏金としてプールしていた。そのお金は,中堅の女先生が管理し,繰り上がり持ち続け,卒業生を担当した学年で慰労に使うという仕組みだった。
新参の若い教師は,事態が進展するまで,カヤの外におかれるわけで,3年以上かけて知り,ツアーを申し込む瀬戸際まで知り得なかったことだった。
私は「校長の子1と2」でも書いたけど,自分の高校の卒業式直前に,地方都市の親元を飛び出し,都会で転々と仕事,アルバイトを替えていた。
教師は私にとって最悪の仕事だったはずだった。が,転職と転居を繰り返し,さらにその後入学した夜間の大学生活を支える為にあまりに貧しい日々をおくっていたので,教職の単位をとり「生活の安定」というカードに,手を出してしまったのだった。
「金で職業を選ぶな」とは今でも人には言うが,私は若い時にそれを身をもってやったことがあるのだよ。人はその人の中身よりも見せかけや職業で,判断するので,私に対する対応はそれまでも今も上がったり(まっそれはあまりないか…)下がったりだ。人の評価ほどあてにならないものはない。( 実は「封印してしまった古い事件 2は 人の評価のこと つまり「内申書」のことだ これは 私も手を下したので懺悔だ)人はいつの日か自分のすべてを清算してあの世に向かうことになっている。だから私も書くのだよ。
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http://kamumi.blog24.fc2.com/blog-entry-179.html
その日。私は,とある料理屋(料亭?)末席におり,「針のムシロ」とはこういう状況を言うのか…という不思議な感慨でただただ俯いて黙って座っていた。
体の大きい男の学年主任がその席上で泣き崩れ,先生たち全員に詫びた。そして,主任を慰める周囲の先生の冷ややかな視線がすべて私に向かっていた。その原因をつくったのは私だったからだ。
主任が泣いた理由それは,先生方全員をタダで沖縄旅行に連れて行くことができなかったからだ。先生一人分が当時で10数万円以上のプールがあり,それを急きょとりやめ,自腹で,しかも食事だけの慰労会となり,「それなら参加します」と言った,私の為に開かれた席上であった。
毎年,毎年,生徒から教材費や本代を定価で集金し,業者には仕入れ値を渡し,差額を裏金としてプールしていた。そのお金は,中堅の女先生が管理し,繰り上がり持ち続け,卒業生を担当した学年で慰労に使うという仕組みだった。
新参の若い教師は,事態が進展するまで,カヤの外におかれるわけで,3年以上かけて知り,ツアーを申し込む瀬戸際まで知り得なかったことだった。
私は「校長の子1と2」でも書いたけど,自分の高校の卒業式直前に,地方都市の親元を飛び出し,都会で転々と仕事,アルバイトを替えていた。
教師は私にとって最悪の仕事だったはずだった。が,転職と転居を繰り返し,さらにその後入学した夜間の大学生活を支える為にあまりに貧しい日々をおくっていたので,教職の単位をとり「生活の安定」というカードに,手を出してしまったのだった。
「金で職業を選ぶな」とは今でも人には言うが,私は若い時にそれを身をもってやったことがあるのだよ。人はその人の中身よりも見せかけや職業で,判断するので,私に対する対応はそれまでも今も上がったり(まっそれはあまりないか…)下がったりだ。人の評価ほどあてにならないものはない。( 実は「封印してしまった古い事件 2は 人の評価のこと つまり「内申書」のことだ これは 私も手を下したので懺悔だ)人はいつの日か自分のすべてを清算してあの世に向かうことになっている。だから私も書くのだよ。