ポロトコタンでアイヌの人達と出会った… 旅その6(旅 終わり)
現代社会の暮らしには満足できなくなってしまっている私自身の立ち位置ってのは「マージナルマン」そのものなんだと思うことがある。
村と街という生活場所の両方に所属しながら,そのいずれのものでもない。PCとかネットとか便利な生活を一方で確保しつつも,素朴に暮らしていた時代や人々にあこがれる自分。
アイヌの人達に出会おうとした旅は,時折おそってくる,これでいいのかという自分確認の旅のようなものなのだろう。
「白老」でアイヌの人達とのたった数時間だったけどやっぱり最高だった。嬉しかった。踊りや楽器演奏も見せてもらったが,その中での「子守唄」に驚いた。
子守唄には決まっりきった言葉はなく,その都度の即興で歌われるものだということだったが,私が子育て中,子供を抱きかかえて歌っていた即興の子守唄に感じがそっくりだったからだ。私の過去の生活まで振りかえる懐かしさのこもった歌だった。
「ムックリ」という口琴を買って帰りたかったが,家で鳴らすと犬達の遠吠えがひどそうなのでやめたのだったが,今後悔している。笛はもともと好きなのだ…
アイヌ料理はサケやじゃがいもが入った素朴な味つけで,北海道で食べたどんな料理よりも私達にはおいしかった。私達が一番好きな味つけだったからだ。冬の間に凍らせてはもどししてつくったじゃがいもの団子もとてもおいしく,干したサケのつまみも旅の間中車内で食べていた。
囲炉裏で燻製にしたサケはもっと美味しく,5月ごろにできるので,そのころに来て食べてもらいたい。とのことだったけど,そのころには行けそうにない…農繁期だから…
たまたま食堂にいた団体さんの応対に出て来られたアイヌの女性,団体さんが帰られた後,隣席に座られてたくさんおしゃべりできた。
彼女が帰られた後,食堂の女性は言った。「タイミング良かったですね。色々お話できて。村木美幸さんという方ですよ。色々詳しかったでしょう。」と。
確かに,帰りのJR北海道の旅案内の冊子の中でも村木さんは北大の学芸員の方と穂の摘み取りに使う,貝殻の「ピパ」って道具のことやなんかを紙面の中で語られていた。
自国の民の為にと迫害され,追い出された,心豊かな先住民族。食べ物を神からきたものと感謝して食べていた人々。
迫害ともいえる状況。今同じようなことがおこっていないと言えるだろうか。
金がすべての人達の権利はますます増大し,使い捨てされ将来を見失いつつある多くの若者達。命の重さなんてないような扱いを受けている福島の子供たちや被災者。自由な発言を封じられつつある現代の私達も迫害されつつあるのではないか。
村と街という生活場所の両方に所属しながら,そのいずれのものでもない。PCとかネットとか便利な生活を一方で確保しつつも,素朴に暮らしていた時代や人々にあこがれる自分。
アイヌの人達に出会おうとした旅は,時折おそってくる,これでいいのかという自分確認の旅のようなものなのだろう。
「白老」でアイヌの人達とのたった数時間だったけどやっぱり最高だった。嬉しかった。踊りや楽器演奏も見せてもらったが,その中での「子守唄」に驚いた。
子守唄には決まっりきった言葉はなく,その都度の即興で歌われるものだということだったが,私が子育て中,子供を抱きかかえて歌っていた即興の子守唄に感じがそっくりだったからだ。私の過去の生活まで振りかえる懐かしさのこもった歌だった。
「ムックリ」という口琴を買って帰りたかったが,家で鳴らすと犬達の遠吠えがひどそうなのでやめたのだったが,今後悔している。笛はもともと好きなのだ…
アイヌ料理はサケやじゃがいもが入った素朴な味つけで,北海道で食べたどんな料理よりも私達にはおいしかった。私達が一番好きな味つけだったからだ。冬の間に凍らせてはもどししてつくったじゃがいもの団子もとてもおいしく,干したサケのつまみも旅の間中車内で食べていた。
囲炉裏で燻製にしたサケはもっと美味しく,5月ごろにできるので,そのころに来て食べてもらいたい。とのことだったけど,そのころには行けそうにない…農繁期だから…
たまたま食堂にいた団体さんの応対に出て来られたアイヌの女性,団体さんが帰られた後,隣席に座られてたくさんおしゃべりできた。
彼女が帰られた後,食堂の女性は言った。「タイミング良かったですね。色々お話できて。村木美幸さんという方ですよ。色々詳しかったでしょう。」と。
確かに,帰りのJR北海道の旅案内の冊子の中でも村木さんは北大の学芸員の方と穂の摘み取りに使う,貝殻の「ピパ」って道具のことやなんかを紙面の中で語られていた。
自国の民の為にと迫害され,追い出された,心豊かな先住民族。食べ物を神からきたものと感謝して食べていた人々。
迫害ともいえる状況。今同じようなことがおこっていないと言えるだろうか。
金がすべての人達の権利はますます増大し,使い捨てされ将来を見失いつつある多くの若者達。命の重さなんてないような扱いを受けている福島の子供たちや被災者。自由な発言を封じられつつある現代の私達も迫害されつつあるのではないか。
鈍行旅で垣間見た JR東日本とJR東海の危機管理能力 旅その5
旅の最後で台風に遭遇したのだが,危機状況での管理能力っていうのは,日頃の能力を超えた能力が要求されるわけで,能力の限界と共にその会社の体質なんてのがよく見えると思うのだ。長文ごめん。がJR東海には怒り心頭なのだ。最後までご一読を。
始発の東海道線下りに大船駅から乗る予定が,台風通過により,始発からストップ。駅で散々待ちくたびれたころ,その日のはじめての下り電車が動いたのが午前10時過ぎでこれに乗り,私達は乗継3回で名古屋に向かったのだった。
大船駅では増え続ける乗客を地下鉄やバスに誘導し,それらの会社線の発車時刻や混み具合まで遂次放送していた。国電の臨時や,折り返し運転になった電車の発車時刻もたびたび変わったが,その都度の時刻が,臨時のホームや臨時の掲示板にまで流されていた。
遅延証明や払い戻しの窓口の案内を流し続けていたし,今後どうすればいいかわからない乗客の為の相談用駅員が2名,コンコースに立った。まっ私から見ても多分誰から見ても万全な対応をしたと思うのだ。
JR東日本の大船駅員達の対応が立派だった為だけでなく,その後のJR東海があまりにお粗末で腹を立てたので,こんなのも鈍行旅のみやげということで書いておきたい。
JR東海よ私は怒っているのだよ。.
西に向かっていたのだし,台風は去りつつある電車に乗ったのだ。風はぐっと弱くなっていた。が,電車はその昔の順法闘争のごとく,停まっては走りで,思いがけずのろのろと進んだ。
その後電車を3回乗り継いだのだが,台風の為遅れたと言葉のおわびを繰り返すばかりで,乗継駅に近づいても,ただの一度も乗換時刻の案内をしてくれなかった。車掌に聞いても乗継の電車はわからないので電車を降りてから駅員に聞いてくれと繰り返すばかり。
私達はそれぞれ手に転がしのカートを持っており,走るのは難しい。乗換の電車の時刻やホームの番号を事前に知ることは重要なのだ。駅が近づくといつだって,車内放送を耳を澄ませて聞いている。それなのに…
そして電車を降りてもどこの駅でもホームの時刻掲示板がまともに機能していなかった。とっくに出発したはずの電車の時刻がまだ発車前であるかのように掲げてあったのだ。これが大船駅であったら,その都度新しい時刻に直して掲示しただろう。
やっと到着した名古屋で乗換の三重方面電車「多気行き」が定刻に発車していて,終日遅れている東海道線の乗換客の都合なんて考えてもいなかったし,乗客の為に連携している気配もなかった。広い名古屋駅のコンコースを上り下りしてやっとお目当てのホームを探し当てたどり着くと,そのホームの駅員は言ったのだ。「もう10分も過ぎてますよ!」って。台風の影響なんてなかったんだって!
それが理由で米原泊になり,もう1泊分と西日本のフリー切符の持ち出しが決定になったのだ。
私は言いたい。JR東海区間でリニアモーターカーなどに乗って事故ると怖いぞ!闇の中に果てしなく長い時間放置される危険性が大ありだってこと。
長旅の間で鈍行の切符の検札に来たのJR東海だけだ。遅れに遅れていて予定外の電車に乗ってる乗客の間を検札してまわったのだ。
何故 「米原」で泊まったのかって。「米原」はJR西日本に変わる最初の駅だったから。翌日の為にもJR東海を抜けてから宿泊すべきと考えたから…
始発の東海道線下りに大船駅から乗る予定が,台風通過により,始発からストップ。駅で散々待ちくたびれたころ,その日のはじめての下り電車が動いたのが午前10時過ぎでこれに乗り,私達は乗継3回で名古屋に向かったのだった。
大船駅では増え続ける乗客を地下鉄やバスに誘導し,それらの会社線の発車時刻や混み具合まで遂次放送していた。国電の臨時や,折り返し運転になった電車の発車時刻もたびたび変わったが,その都度の時刻が,臨時のホームや臨時の掲示板にまで流されていた。
遅延証明や払い戻しの窓口の案内を流し続けていたし,今後どうすればいいかわからない乗客の為の相談用駅員が2名,コンコースに立った。まっ私から見ても多分誰から見ても万全な対応をしたと思うのだ。
JR東日本の大船駅員達の対応が立派だった為だけでなく,その後のJR東海があまりにお粗末で腹を立てたので,こんなのも鈍行旅のみやげということで書いておきたい。
JR東海よ私は怒っているのだよ。.
西に向かっていたのだし,台風は去りつつある電車に乗ったのだ。風はぐっと弱くなっていた。が,電車はその昔の順法闘争のごとく,停まっては走りで,思いがけずのろのろと進んだ。
その後電車を3回乗り継いだのだが,台風の為遅れたと言葉のおわびを繰り返すばかりで,乗継駅に近づいても,ただの一度も乗換時刻の案内をしてくれなかった。車掌に聞いても乗継の電車はわからないので電車を降りてから駅員に聞いてくれと繰り返すばかり。
私達はそれぞれ手に転がしのカートを持っており,走るのは難しい。乗換の電車の時刻やホームの番号を事前に知ることは重要なのだ。駅が近づくといつだって,車内放送を耳を澄ませて聞いている。それなのに…
そして電車を降りてもどこの駅でもホームの時刻掲示板がまともに機能していなかった。とっくに出発したはずの電車の時刻がまだ発車前であるかのように掲げてあったのだ。これが大船駅であったら,その都度新しい時刻に直して掲示しただろう。
やっと到着した名古屋で乗換の三重方面電車「多気行き」が定刻に発車していて,終日遅れている東海道線の乗換客の都合なんて考えてもいなかったし,乗客の為に連携している気配もなかった。広い名古屋駅のコンコースを上り下りしてやっとお目当てのホームを探し当てたどり着くと,そのホームの駅員は言ったのだ。「もう10分も過ぎてますよ!」って。台風の影響なんてなかったんだって!
それが理由で米原泊になり,もう1泊分と西日本のフリー切符の持ち出しが決定になったのだ。
私は言いたい。JR東海区間でリニアモーターカーなどに乗って事故ると怖いぞ!闇の中に果てしなく長い時間放置される危険性が大ありだってこと。
長旅の間で鈍行の切符の検札に来たのJR東海だけだ。遅れに遅れていて予定外の電車に乗ってる乗客の間を検札してまわったのだ。
何故 「米原」で泊まったのかって。「米原」はJR西日本に変わる最初の駅だったから。翌日の為にもJR東海を抜けてから宿泊すべきと考えたから…
鈍行旅で知った JRの運行実態 旅その4
お金で言えば今回のJR旅では,元々JRや国鉄だった路線が他の会社線に変更になっており,途中区間持ち出しの交通費が発生した。まっ調査不足と言われればその通り…
「交通新聞社」発行の大型の時刻表で読み取った時刻だったが,その部分が別の会社線であるとは全く気づかなかった… 時刻表の頁も用紙の色も変わらない。線名に愛称がついてるな~とは思ってたが。
岩手の盛岡から青森という幹線がJRではないとは…「青い森鉄道」と「IGR岩手銀河鉄道」の2線。
今回の企画切符では特別に青森⇔八戸間は乗車可だったが,盛岡⇔八戸間は持ち出し。
さらにJR北海道では今年7月からの事故や不祥事により,列車の大幅間引きやダイヤの変更が行われていて,ただでさえ乗継困難でプラス特急に乗るしかない区間があった。近々路線廃止になりバス路線に変更になるところもあるという。
その情報は以下の写真の2人からだ。
帰りの列車,小樽から長万部まで乗った鈍行の隣席で乗り合わせた,鉄道少年団の小学6年生だ。
長万部で乗換の列車が間引きされてることを知って唖然としている私たちに,「待合室で対策会議だ!」と言ってくれた可愛いくて頼もしい2人だ。その日は個人学習の日とか。
私の青春時代,もう50年近く前,「カニ族」と呼ばれ,大きなリュックを背にした若者達,国鉄の駅やユースホステルを根城に,北海道の隅々まで転々と旅をした若者達がいた。そのころは,国鉄でどこまでも行けた。海外旅行なんてのはまだ一般的でなかったし,40日以上の長い夏休みをつぎ込んでいた若者もたくさんいた。今考えればあの時が鉄道の黄金時代だったのだろう。
鉄道少年団の少年2人は将来JR北海道に就職したいとのことだった。そんな日に再会してみたいものだ。2人は駅ごとに電車の内外から写真を撮ってまわるなど,忙しく動いていた。私達の行きの切符をあげ,チラシの写真撮影をさせてあげたら最敬礼してくれた。
そんな私達の様子を後ろの座席から話に加わりたそうにニコニコ覗き込んでいた紳士が実は東京発の企画切符。奥さんから同行を拒絶され,「一人旅」という人で,切符もみせてくれ大笑いした。
「交通新聞社」発行の大型の時刻表で読み取った時刻だったが,その部分が別の会社線であるとは全く気づかなかった… 時刻表の頁も用紙の色も変わらない。線名に愛称がついてるな~とは思ってたが。
岩手の盛岡から青森という幹線がJRではないとは…「青い森鉄道」と「IGR岩手銀河鉄道」の2線。
今回の企画切符では特別に青森⇔八戸間は乗車可だったが,盛岡⇔八戸間は持ち出し。
さらにJR北海道では今年7月からの事故や不祥事により,列車の大幅間引きやダイヤの変更が行われていて,ただでさえ乗継困難でプラス特急に乗るしかない区間があった。近々路線廃止になりバス路線に変更になるところもあるという。
その情報は以下の写真の2人からだ。
帰りの列車,小樽から長万部まで乗った鈍行の隣席で乗り合わせた,鉄道少年団の小学6年生だ。
長万部で乗換の列車が間引きされてることを知って唖然としている私たちに,「待合室で対策会議だ!」と言ってくれた可愛いくて頼もしい2人だ。その日は個人学習の日とか。
私の青春時代,もう50年近く前,「カニ族」と呼ばれ,大きなリュックを背にした若者達,国鉄の駅やユースホステルを根城に,北海道の隅々まで転々と旅をした若者達がいた。そのころは,国鉄でどこまでも行けた。海外旅行なんてのはまだ一般的でなかったし,40日以上の長い夏休みをつぎ込んでいた若者もたくさんいた。今考えればあの時が鉄道の黄金時代だったのだろう。
鉄道少年団の少年2人は将来JR北海道に就職したいとのことだった。そんな日に再会してみたいものだ。2人は駅ごとに電車の内外から写真を撮ってまわるなど,忙しく動いていた。私達の行きの切符をあげ,チラシの写真撮影をさせてあげたら最敬礼してくれた。
そんな私達の様子を後ろの座席から話に加わりたそうにニコニコ覗き込んでいた紳士が実は東京発の企画切符。奥さんから同行を拒絶され,「一人旅」という人で,切符もみせてくれ大笑いした。
