独学でヨーガをやる 一緒にやろう! 42
ヨーガ体操とヨーガの最終目的のことを
書いて 置かないと どうも落ち着かない…
ヨーガ体操にきちんと呼吸をつけていようが,つけまいが 少なくとも長年
体操らしいものを全くやって来なかった人には それはやはり
素晴らしい効き目がある。
簡易体操だけでも。また基本体操だけでも。毎日続けるならばね。
うちの夫がそう。習う気もないし 教えたこともない。
が 独りで散歩に出て行って,結構時間をかけてヨーガ風の体操をやっている。
そういう テキトーヨーガでも 毎日の効果は確かにある。
でも 私は一番最初に 独学ヨーガを始めるにあたって
独学でヨーガをやる 一緒にやろう! 1 無料
↑
で,大言壮語しちゃっているのだ。
このことについて 補足の必要を感じつつ…
心ズタズタ,体ボロボロの人にも と 確かに呼び掛けた…
だから 体操やってもダメじゃんという人には 丁寧に次なる説明,提案をする
責任があるかも知れないと
ヨーガ体操はヨーガの究極目標でなく
ヨーガ体操はヨーガの道の一里塚。
ヨーガ体操の目的は瞑想のできる心と体をつくることにあり
体操に添える呼吸も瞑想のできる心と体をつくることにある
仏教でも
座禅がいいと言っても座禅ができる体になってないと 長く座り続けることはできない。
静かに座り続けられる体は柔らかく 真っすぐ背骨が立っている必要がある。
心ここにあらず という心を体につないで留めておく方法を学ぶ必要もある。
人の心は片時もじっとしていない。
動物の本能でもある五感の窓口は外部の敵に対して用心深く外に向かって開かれている。
瞑想で心と向き合うには
外に向かいたがる心を押さえて内に向かわせる方法を学ぶ必要がある。
じゃあ
瞑想の後に何が来るのか?
瞑想の段階を踏んでいけば 無想三昧 という境地に達し
仏教でいう「空」という境地に達するらしい。
…「空」とは虚無でないどころか,きわめて充実した明晰な内容を持っているらしい。
↓
佐保田先生の本の内容より(ヨーガ入門 ヨーガの究極の境地 p223)
-----
「…ヨーガ経典は,この体験を説明して,
【真我(魂)が,その周囲を取り巻いている自然的存在と自分とを混同していた
過失に気づいて,その束縛から脱出することである】といっています
この時真我は,さん然として,まばゆい白光の幻覚として現れるのです。
この素晴らしい体験はほんのしばらくしか続きませんが,しかし,それから
元の心理状態にかえった後も,その時の体験で得た印象は人生についての
深い知恵の形で残り,その体験の余香である一種のムードは,その人の人格
を平静,明朗なものにかえてしまうのです。
ヨーガの究極目的は,真我,又は,自分の内部に本具する神性を実現すること
にありますが,それほどに高い目的を達成するには至らないまでも,ヨーガ的な
方法でココロの修練を重ねてゆくならば,評価しきれないほどの,大きな利益を
得ることができます。
一生のうちに大きな仕事をした人々は,生まれつきが修練かで,このヨーガに似
たココロのコントロールができる人であったのです。」
----
↑
真我に目覚めた人は 自分や自分のものだと思っていたものと,自分以外の人,自
分を取り巻く自然などと分けて考えていたものの一切が,根底から崩れてしまう。
そこに新たに現れるのは 自分とか他人とかという人格感のない 言葉にならない
ほど大いなる存在 それをはっきりと悟らせてくれる まばゆいばかりのもの。
こういう体験は人間を激変させますよね。
クヨクヨ,ズタボロ? もうありえない世界ですよね。
佐保田先生は いつもジャージ姿で,気さくで 暖かい人だったようですが。
先天的か目覚められたものかはわかりませんが,たくさんのお弟子さんを育てられ
たことから
私としては それは 起こったのではないか と思っている…
クンダリーニ とか 覚醒 なんて大騒ぎする人はいるが そういうものは 個人的
内的なことと 捉え どこまでも静かだったと思う
私も希望だけは持って ←まっ このぐらいしか書けないトホホな自分だけど
まず長生きして 人の倍以上時間があってもどうかだし…
一緒に長生きして頑張ろう!
一生精進
心ズタボロの人 とりあえず 続けてください! きっといいことありますよ!
書いて 置かないと どうも落ち着かない…
ヨーガ体操にきちんと呼吸をつけていようが,つけまいが 少なくとも長年
体操らしいものを全くやって来なかった人には それはやはり
素晴らしい効き目がある。
簡易体操だけでも。また基本体操だけでも。毎日続けるならばね。
うちの夫がそう。習う気もないし 教えたこともない。
が 独りで散歩に出て行って,結構時間をかけてヨーガ風の体操をやっている。
そういう テキトーヨーガでも 毎日の効果は確かにある。
でも 私は一番最初に 独学ヨーガを始めるにあたって
独学でヨーガをやる 一緒にやろう! 1 無料
↑
で,大言壮語しちゃっているのだ。
このことについて 補足の必要を感じつつ…
心ズタズタ,体ボロボロの人にも と 確かに呼び掛けた…
だから 体操やってもダメじゃんという人には 丁寧に次なる説明,提案をする
責任があるかも知れないと
ヨーガ体操はヨーガの究極目標でなく
ヨーガ体操はヨーガの道の一里塚。
ヨーガ体操の目的は瞑想のできる心と体をつくることにあり
体操に添える呼吸も瞑想のできる心と体をつくることにある
仏教でも
座禅がいいと言っても座禅ができる体になってないと 長く座り続けることはできない。
静かに座り続けられる体は柔らかく 真っすぐ背骨が立っている必要がある。
心ここにあらず という心を体につないで留めておく方法を学ぶ必要もある。
人の心は片時もじっとしていない。
動物の本能でもある五感の窓口は外部の敵に対して用心深く外に向かって開かれている。
瞑想で心と向き合うには
外に向かいたがる心を押さえて内に向かわせる方法を学ぶ必要がある。
じゃあ
瞑想の後に何が来るのか?
瞑想の段階を踏んでいけば 無想三昧 という境地に達し
仏教でいう「空」という境地に達するらしい。
…「空」とは虚無でないどころか,きわめて充実した明晰な内容を持っているらしい。
↓
佐保田先生の本の内容より(ヨーガ入門 ヨーガの究極の境地 p223)
-----
「…ヨーガ経典は,この体験を説明して,
【真我(魂)が,その周囲を取り巻いている自然的存在と自分とを混同していた
過失に気づいて,その束縛から脱出することである】といっています
この時真我は,さん然として,まばゆい白光の幻覚として現れるのです。
この素晴らしい体験はほんのしばらくしか続きませんが,しかし,それから
元の心理状態にかえった後も,その時の体験で得た印象は人生についての
深い知恵の形で残り,その体験の余香である一種のムードは,その人の人格
を平静,明朗なものにかえてしまうのです。
ヨーガの究極目的は,真我,又は,自分の内部に本具する神性を実現すること
にありますが,それほどに高い目的を達成するには至らないまでも,ヨーガ的な
方法でココロの修練を重ねてゆくならば,評価しきれないほどの,大きな利益を
得ることができます。
一生のうちに大きな仕事をした人々は,生まれつきが修練かで,このヨーガに似
たココロのコントロールができる人であったのです。」
----
↑
真我に目覚めた人は 自分や自分のものだと思っていたものと,自分以外の人,自
分を取り巻く自然などと分けて考えていたものの一切が,根底から崩れてしまう。
そこに新たに現れるのは 自分とか他人とかという人格感のない 言葉にならない
ほど大いなる存在 それをはっきりと悟らせてくれる まばゆいばかりのもの。
こういう体験は人間を激変させますよね。
クヨクヨ,ズタボロ? もうありえない世界ですよね。
佐保田先生は いつもジャージ姿で,気さくで 暖かい人だったようですが。
先天的か目覚められたものかはわかりませんが,たくさんのお弟子さんを育てられ
たことから
私としては それは 起こったのではないか と思っている…
クンダリーニ とか 覚醒 なんて大騒ぎする人はいるが そういうものは 個人的
内的なことと 捉え どこまでも静かだったと思う
私も希望だけは持って ←まっ このぐらいしか書けないトホホな自分だけど
まず長生きして 人の倍以上時間があってもどうかだし…
一緒に長生きして頑張ろう!
一生精進
心ズタボロの人 とりあえず 続けてください! きっといいことありますよ!
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